いま流行りのマインドフルネス、瞑想、禅
これらに共通してしていること
それは「いま、ここに集中しなさい」ということ

今、に集中することで癒されたりリラックス出来る
瞑想による様々な効果が科学的にも実証されてきていて、それをビジネスにも応用しようと有名企業などが取り入れたりしています

例えばストレスや不安の減少や免疫力のアップ、リラックス効果や直感が冴えるなど

ところでなぜ「いま、ここ」に集中するだけでそのような効果が得られるのでしょうか

というよりも、なぜ僕たちは「今」から離れてしまうのか

正確には、僕の「思考」



苦しみを生み出す「思考」

猿


人は様々なことを「予測」し「想像」します

「いいこと」も「悪いこと」も

この脳の高次な機能のおかげで人間はここまで文明を進化させてきたと言ってもいいでしょう

ところが、この機能にはある副産物があります

それが、「今」から離れ、「過去」や「未来」に思考を飛ばし、そしてその「思考」に囚われてしまう、ということ

この「思考」に囚われてしまうと、それが「今」現実に起こっていることではないにも関わらず、まさに現実に起こる、と信じて疑わなくなってしまったり、すでに過ぎ去ったことなのに「今ここ」で起こっているかのように思い出したりします

この囚われこそが、不安や苦しみを生み出す原因になっているのです

よく言われることが、「過去の失敗」や「未来への不安」というネガティヴな思考の囚われ
「今ここ」には存在しないネガティヴな思考に囚われて、感情的に落ち込んでしまう
過去の嫌な記憶は、何度も何度も繰り返し、「自分はダメなヤツだ」という刷り込みをしてしまう
あるいは未だ起こっていない未来に対して「悪い結果になったらどうしよう」と思い悩み、それがいつしか「悪い結果になるに決まっている」という風に思い込んでしまう

思考に囚われてしまうと、それが「現実」であると疑わなくなってしまうこともあります

そして困ったことに、心の底から「現実」だと思い込むと、それに即した側面を見つけ出し「ほらやっぱりね」という現実を経験することになってしまいます

これは人間は自分が望んだものしか見ない、という性質があるからです

「こうであるはずだ」「こうでなければならない」「こうだったらいいな」

そういう思い込みが、それに当てはまる情報や経験だけにフォーカスしてしまう

例えば、ニュースのトピック一覧をザッと眺めるとします

一日のうちに様々なニューストピックがあります

ジャンルも様々、政治、経済、スポーツ、芸能・・・

これらを「現実の世界」一覧だとしましょう

でも、その一覧を見る人間ひとりひとりが見つけ出す「現実の世界」は同じではありません

どのトピックにフォーカスするかによって、見える現実は違ってきます

興味のあるトピックだとしても、自分の思っている「現実」にかけ離れた記事を目にすると、「これは間違った記事じゃないか?」と思ったり、自分の考え方と同じだなという記事を見ては「やっぱりそうなんだ」と自分なりの「現実」を構築、強化しています


「希望」が生む苦しみ

睡01


そして実は「よい未来」を想像することにも実は「苦しみの種」は潜んでいます

「こんな事をやってみたい」「こんな風になりたい」

明るい希望に満ちた未来を想像することは楽しいですね

でも仏教なんかではこういうことも「よくないこと」「執着」であると言われています

なぜなら、これも「思考」が「今」から離れてしまっている点で、ネガティヴな妄想と変わらないからです

もっといえば、「こんな事をやってみたい」というのは「やれていない今」が前提としてあり、「こんな風になりたい」というのは「なれていない今」が前提としてあるからです

なんだか屁理屈みたいに聞こえてきますが、そうなんです

実際、理想を持つことによって苦しむことはある

どんなに頑張って努力しても理想に近づけない、うまくいかない、といった事態になった場合、「今」を否定しているだけに苦しみは大きくなります

やりたいことがあるのに「時間がない」「忙しい」「お金がない」などの理由で出来ないと「出来ない今」がとても苦しく思えてくる

先日、ネルケ無方さんというお坊さんの「ただ座る」という本を読んだ時にこんなことが書かれていてハッとしました

自分の時間とは「好きな事をしている時間」だと思い込んでいる
そういう考えでは修行にならない
すべての時間が「自分の時間」なのだ

「好きな事をしている時間」という考え方が「好きな事をしていない時間」という苦しみを生み出してしまうこともあります


「今ここ」とは「今満たされている」ことに気付くこと

自然ぽんちょ


光があれば影が出来る
影があるから物を認識出来る

同じように、希望や理想があれば、同時に不安や失望がその裏側にある

どちらか片方とはいかないものです

ちょっとしたことで嬉しくなったり、また不安になったり、揺れ動くのが人の心
あまりにどちらかに偏ってしまうことが問題で、うつになったり、逆に躁になったりしてしまう

そう言う時に、立ち戻る原点

それが「今ここ」なんだと思います

マズローの欲求5段階説というのがあります
人間の欲求というものは5段階のピラミッド構造になっているというものです

マズロー


一番下の階層から

・生理的欲求(生きて行くための基本的・本能的な欲求)
・安全欲求(安全・安心な暮らし)
・社会的(帰属)欲求(集団に属したり仲間が欲しい)
・尊厳欲求(承認欲求、他者から認められたい、尊敬されたい)
・自己実現欲求(自分の能力を引きだす、創造的活動)

どうもこの欲求は下からだんだんに上がって行くものではなくすべてが影響し合っているような気がするのですが、これらの欲求が様々なモチベーションとなって、行動に繋がって行くことは確かでしょう

なにかしらの欲求を持つことは自然です
これらの欲求をうまくコントロールし、活用していくことは生きて行く上で重要なこと

でも同時に、欲求には終わりがありません
どこかで「足るを知る」ということが必要です

「今ここ」に集中すれば「足る」ことが出来る

僕は、「今ここ」に立ち戻るとき、一番下の「生理的欲求」まで欲望を落として、考えるようにしています

ようするに、「生きている、というだけでまずはOK」というレベル

これは自身のうつ経験が元になっています

本当に底まで落ちた後に感じた「生きている喜び」

「ああ、人って本当に生きているだけで何もかも満足することができるんだ」と感覚として体感する事が出来ました

もちろん、欲求が満たされたあとはすっかりそんな感覚など忘れて、また「あれが足りない」「これが足りない」と苦しんだり悩んだりの状態に戻ってしまうんですけれども、心の根っ子には、まだその感覚は残っています

この状態の満たされ方は、何か欲求を解消したり達成したりする喜びとはまったく次元の違うものでした

「今のままで完璧なんだ」という感覚
「過去」からも「未来」からも切り離された「今」
「希望」も「絶望」もない「今」
「ただ、生きている、今」
「ただ、呼吸し、ただ感じている、今」

「今ここに集中する」というのはそういうことだと思います

仏教修行者のように、つねに「今ここ」にありつづけることは難しいかもしれませんが、自分のバランスが崩れている、思考ばかりが先走ってしまっているな、しんどいな、と思った時には思い出してみる

「今ここに生きている」ということ




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