なにかと昨今話題のアドラー心理学
 
僕も心理学なんかの話を聞いたりするのは好きなもんで、アドラー心理学の研究者、岸見一郎氏の話をちょっといくつか観たり聞いたりしてみました

アルフレッド・アドラー
アルフレッド・アドラーは、オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフ・ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。

なかなか興味深い話がたくさんあったんですが
その中で特に印象に残った話が「劣等感」についてです

  • 劣等コンプレックスと優越コンプレックスの話
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自分を苦しめているのは「劣等感」であると岸見氏は言います
その劣等感には「劣等コンプレックス」「優越コンプレックス」の2種類があるそうです

劣等コンプレックスの人の特徴は「○○だから○○できない」「○○でないから○○できない」というように、出来ないことの理由を自ら作り出している

これは、まあ何となくわかりますが、問題は優越コンプレックスの方が僕、ザックリときちゃいましたよ

優越コンプレックスの人の特徴としてあげられていたのが
 
自分を実際よりも優れているように見せようとする
他者からどう見られているかを非常に気にする
自分で自分についての理想を高くしようとする

smile



あたたたたたたあ!!

01
 

ウォウ・・・ヤバいっすよ
アドちゃんヤバいっすよ・・・

当てはまりすぎて父ちゃん情けなくて涙出てきましたよ

なんやねん優越コンプレックスて・・・



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「人の活動の源泉は、優越性の追求」だと言うアドラー


優越性って結局、人より自分が優れているものってことです

僕にとっての優越性の追求、それはマンガを描く、ということだったのかもしれない


  • アドラー心理学的「ぽんちょとマンガ」
怒り


そもそもなんでマンガを描くようになったのか、という要因のひとつには間違いなく、子供の頃の周囲と比べて自分が「絵を描くことが得意だった」ということがある

子供といえども、しっかりと集団の中で「自分」というものを確立するために、周りと比べて自分は何が得意なのか、ということを本能的にやるんだそうですね

男の子だったら、まずは力が強いとか足が早い、運動ができるみたいなことから、明るい、面白いみたいなとこ、頭がいい、勉強ができるとか
そういうことで、「みんなの中の自分の立ち位置」というものを作り上げて行く
これはその子の性格やら趣向にかなりの影響を与えるんだそうです

で、僕の場合、自分が他人よりも特別になれるもの、それが「マンガを描ける」ということだった

まあ、それをコンプレックス、と呼ぶなら誰にでも多かれ少なかれあるんじゃないでしょうかね

言い換えると、その他大勢になりたくないからマンガを描いてきた。
集団の中で自分にしかない優越性を求めていたのかもしれない
マンガを描くということは、「描ける」ことが他人との差別化になるし、特別感を抱くことができる

それが、学校レベルの狭いコミュニティ内で完結するなら僕は割りと幸せにコンプレックスを満たせていたかもしれません

だけど、やっぱり欲がある

自分の「特別」がどこまで特別なのか、知りたくなる

そういう欲が強い人がプロを目指したりするんでしょうかね

だけど、狭いコミュニティを飛び出して行けば、こんどは「描ける」人たちのなかに埋没して、優越性を失ってしまうかもしれない怖さがある

そこでは自分は特別扱いされなくなるかもしれない

まあ、実際にプロを目指してみれば自分の身の丈というか、そんなものを実感させられたわけですけれども。。。

そう考えてみると、自分にとって何がしんどかったのかと思い返せば、「特別扱いされたい!」という欲と「そんなに特別じゃない」という現実でせめぎ合いみたいな
そんな苦しみだったのかもしれません

そんな思いをしながらみんな自分の分相応ってところを納得していくのかなぁという。。

まあ、それでも完璧にそう割りきれていないっぽいな、と思うのは、いまでもマンガを描いてネット上にアップしたりすると、ちょっとは「特別感」を期待しちゃうところもあるんですよね

で、まあ他人と比べてしまえばどこであっても大抵こんなもんかな、ってところに落ち着くわけですけど、期待の分だけちょっと失望してる自分に気付いたりする

まだ、やっぱなんか期待してんだなーと



  • 「普通である勇気」
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「普通である勇気を持て」
岸見氏は、アドラーの言葉をこう表現しました

これが、なんか刺さったんですよねぇ

特別になろうとしなくてもいい
自分を特別よく見せる必要も、逆に悪く見せる必要もない

ありのままの自分をまず受け入れて、普通であることを許す

僕は、自分のことをコンプレックスの強い人間だと思ってきました

コンプレックスが強いから、「特別」であろうとすることにこだわる

普通であることになかなか納得できない

わがまま、というのもわかってるんですけどね

逆に今は、だからマンガを描き続けたいなあ、とも思うんです

特別じゃなくても、堂々と自分を出していける
出し続けていける、勇気を育てたい

根底は変わっていないかもしれないけど、歩き続けることに少しは意義を見いだせるようになったのは、ちょっとだけ「あるがままの自分」ってのを受け入れられるようになってきたのかな

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と、まあ、今回はアドラー心理学を受け入れて、このように自分に照らして考えてみたわけですけれども
実は最近はすっかりと、「ま、どうでもいいっちゃどうでもいいけどね」的な感じになって来てたりもするんです

まあ、そう言われればそうかもしれないけど、それだけでもないよね、っていうか

結局理屈は理屈で、ちょっと現実とは距離があるっていうか

まあ、こういう考え方、見方もあるんだなぁってくらいが丁度いいです

面白いなーって

どっぷり入っていくのも悪くないですけどね

その方がしんどいですからね

ちなみに、「自分は特別」って思ってない人っているんですかね?

人は誰だって少なからず「自分は特別だ」という思いを持っているんじゃないんでしょうか

特別に「よいか」「悪いか」はあるけれど

自分以外の他人になることはないわけだし。。

いろいろやってみて、こういう知識とかも入れたり試したり、さんざんやった後
「もう、どうでもいいや」と諦める
これが受け入れる、ということの本質なのかもなあ、なんて思うこの頃です

心理学やら哲学やら思想やら
面白いけれど、それで現実がどう変わるかといえば、案外何も変わらなかったりする
だから、「自分はそもそも、そういう話が好きなんだ」と
こんな心理学の話に興味があること事態、自分はそういう話が大好物なんだなあ、というくらいでいい

それくらいに思っていればなんの問題もない

でも、好きであるということは囚われやすいということでもあるんで

いつの間にか、それだけが唯一絶対の真実みたいに思えてくるとちょっとまずい

それって、ある意味信仰だし、宗教になっちゃう

「信ずるものは救われる」って

僕ははっきりいって心理学だけじゃ人は救えないと思ってますけど(好きだけど)

仏教なんかじゃ好き、とは執着といったりしますね
執着すれば、しんどくなる

心の問題を考えたりすることは面白い
自分の問題でもあるから、より興味をもって聞いたりする
でも、いつの間にかのめり込みすぎて、好きが執着に変わる
執着か信仰になると、その教えにそむく心がまた許せなくなったり自分を責めたり

心を覗くときには、楽しむくらいの余裕がないと、逆に心に囚われちゃうんじゃないかな、と思うわけです



 




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